ひとつの解決策としては、省略不可能である CSS style と、本質的ではない CSS style を別々に指定できたりメタデータとして指定できるようにするという方法ですが、まあ人間が同じ言語内でそれを正しく扱えるわけもなく
CSS がコンテンツの本質でないというのは若干原理主義的に聞こえるかもしれませんが、たとえば user stylesheet みたいなのは典型的に CSS が交換/削除可能であるという前提で使われますよね
コンテンツが本質的に特定の表現を要求すること自体はべつに問題視していなくて、まあそういうコンテンツであるというだけなんですが。
問題は、その本質的コンテンツの強制が、本来コンテンツの本質から分離された表現フォーマットを指定するものであった CSS を用いて書かれているというところで、そのせいで「どこまでが不可欠でどこからが任意なのか」がわからなくなる。これが嫌。
私は、可搬性とセマンティックであること (よく意味付けされていること) は両方とも同様に重視しています。
たとえば単純な文書における HTML5 とか CSS は「意味は HTML 、表現は CSS」という棲み分けでうまくいっていて、 CSS は最悪なくても動くものだった。
一方、 CSS でアニメーションを書くと、アニメーションはコンテンツの不可分な一部であったりするので、そこには勿論「意味」が存在することになるし、そうなったときもはや「意味と表現の棲み分け」はできていないのではないか、と
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まあ、もっと掘り下げて「何故ロジックを不必要に注入したくないのか」といえば、もちろん時間方向の再現性を担保したいという理由もあるし、あるいはデバイス依存を小さくするという空間方向の再現性を担保したいという理由もあるし、機械可読性を高めたいとかセマンティックにしたいという理由もあります
あるいは、たとえば Flash がどんなに本質的に静的なコンテンツを提供していても、その表示には「実行」を伴うわけで、これは本来望ましくない形態というか、コンテンツの性質と表現が噛み合っていないよね、と
で、文書というのが何を指すかはさておき、たとえば飛び出す絵本のようなコンテンツは静的というよりは「実行」によって得られる体験をコンテンツとして提供していると考えられるので、私の中では「動的」に分類されます
で、逆にロジックを含む文書というのは、「実行されるべき文書」であるという意味で捉えることができて、それを意図して「動的」という言葉を使いました
たとえば完全に静的な文書において、その表現が実行可能なロジックを持つことはないし、それゆえに可搬性が高くなる
私の欲求はもうちょっと根源的なところにあって、「私が欲するコンテンツは本質的に実行されるべきロジックを持つか」という観点で考えています
次のステップとして、いわゆる「デジタル技術」で何ができるかといえば、事実上「何でも」できることになり、事実Flashコンテンツはそういったことから花開いたものだっただろう。