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お金を集める側がコンテンツ化される(=非人間化される)ということのみならず,好意や感情という本来値段をつけるべきでない人間の情緒を金銭化するという点で,出資する側も非人間化されることになる.
煩く宣伝を繰り返すことや支援サイトでの集金・誘導に忌避感を覚えるのはそういう点にも由来する.煎じ詰めると「値段をつけるべきではないものもあるだろう」ということになるが,これは何だか古臭い考えとも見える.
チャンネル登録おねがいします要不要の件、漫画雑誌だとアンケートよろしくおねがいしますって作品中に書かないから、YouTubeの動画でも同じようにすることはYouTubeがなんかすれば可能だとは思うのだけれども…‥。
「信用」という語の性質――あるいは正体――が変わってしまうというのがあるかもしれない.さっきのクラウドファンディングの例だと「信用」はむしろその人とかかわったことによる好意や感情(affection)で,そういう情緒的な水物に決定権を委ねたくないというところがある.
違うのだろうけれど、物質でも(直接には)労働時間でもないものがお金を出すかどうかの分かれ目になる、その中で人をコンテンツ化するかどうかの境界線はどこにあるのだろうか
なんでも多分にそういうところはあるけど、ここで出てる話はちょっと違う気がする
[RFC PATCH 0/7] Linux on Apple Silicon - Mohamed Mediouni
https://lore.kernel.org/lkml/20210120132717.395873-1-mohamed.mediouni@caramail.com/
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